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<「お城拝見!」釜ヶ城>
広報あきたかた3月号に、
当館学芸員が連載中の、「安芸高田歴史紀行 シリーズお城拝見!第21回 釜ヶ城」(本市甲田町)を掲載しています。

★なお、広報記事はPDFでご覧いただけます。このページの末にリンクがあります。

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===以下は本文に掲載できなかった筆者の雑感です===

 ここは南北朝期の毛利元春の家族内での内乱時に合戦の記録が残る珍しい城跡です。現在の遺構は戦国時代の改修が強くうかがえますが、長期に渡って使用された可能性のある非常に面白い城です。ただし、南北朝期の記録上の「釜額城」がこの「釜ヶ城」にあたるかは確信が持てません。同時期の「吉田城」が郡山城にあたるかどうか不明なのと同じです。(立地的には南北朝期の城という雰囲気はします)

 戦国期の城主とされる三上氏には疑問がありましたが、調べてみると実在し、毛利氏家臣として各地で重要な任務をおこなってたようです。特に、子の三上豊後守については、鞆の浦の代官をしたり、石山本願寺へ救援に行ったり、大坂へ再三秀吉への使いをたり、朝鮮へ兵糧を運んだりもしています。意外に江戸期の地誌類も簡単には否定できないようです。

 非常に丁寧な削平がされており、主郭の北側に長く高さ1m程の土塁がよく残っています。この土塁上は通路になっており、途中大きく湾曲し「折れ」がありますが、これはいわゆる「横矢」ではなく、自然地形によるものではないかと思われます。整地の丁寧さや直線的な構造から織豊系城郭の影響を連想させますが、石垣らしいものは全く確認できませんでした。

 勿論、毛利氏独自に石垣を使用している城も多いと思われ、毛利氏の城郭における織豊系の影響がどこまであったのか、石垣の使用の有無も含めて再検討する必要を感じました。

 またこれは想像ですが、もしかしたら郡山合戦時に陶軍が1ヶ月余り滞在した「山田中山」の陣が、ここかもしれないとも思いました。でないと、重臣クラスとまではいえない三上氏がここまで大きな城を郡山城の近くに持つ必要があるのかと感じたからです。

 広く整然とした郭は大軍勢を想像させ、当地の地名も現在の山田地区と隣接しています。また、平素は渡辺氏がいたといわれる山麓の長見山城を使えばいいはずで、こんな高い立地にわざわざ三上氏が城を持っていたというのはどうも不思議なのです。

 しかも、この城の尾根を西に進み、そこから谷を下ると、直接郡山城の正面に出ることができる道があるのです。この道は未踏査ですが、1541年1月11日の陶軍の進軍ルートではないかとにらんでいます。

 周辺には粟屋氏の塩屋城など他にも大きな城があります。これらとの関係を見た上で、今後また検討したいと思います。

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安芸高田歴史紀行 シリーズお城拝見!第21回 釜ヶ城




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