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 柘植家は七瀬河内(ななせかわち)・聖屋(ひじりや)と呼ばれていた。江戸期から明治にかけて村役人を務めるとともに、北部七ヵ村の割庄屋をも兼ねていた。明治4年(1871)の武一騒動の際、割庄屋である当家は一揆の農民の狙われる所となった。同年8月14日の夕刻、高田郡北部一帯の多くの農民が同家を襲い、建物、家財道具などことごとく打ち砕いたという。
この事件を機に家が衰退し、家屋敷もなくなったが、墓地だけは縁者や近隣の人々によって護持されている。
墓石は、農民のものとしては近村に比類のない豪華なもので、延享2年(1745)のものなど古い年号が判明するものが26基、また、高さ165cm、六つ重ね、台石64cmのものも建ち、「聖屋傳四郎宝暦四」「三代武助寛政七」など総数51基を数える。

 

◆名 称
柘植家の墓
◆よみがな つげけのはか
◆種 別 史跡
◆場 所 安芸高田市高宮町川根 薬師地区
◆市 指 定 昭和61年(1986)2月7日

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